自主映画まみれ!

自主映画(特に個人映画)という特殊で奇妙でへんてこりんでとてつもなく面白い世界の紹介や批評や悪口や日々のくだらないどうでもいいことを脈絡無くつづったブログ。ただいまブログだと怖いけど会ってみたら割といい人じゃん♪キャンペーン実施中(落とし所不明)

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死んだらどうなるか?という疑問は殆どの人がすでに知っている。

Category: 日常・雑記  
徹夜に徹夜を重ねてバタンキューで寝て、はっと気づいたら時計が一回りしていた。
という経験をしたことのある人は多いと思う。その間、電話が鳴っても誰かが呼び鈴鳴らしてもまったく気づかずにとことんまでの眠り。俺なんか時々俺のいびきで起こされたカミさんに鼻つままれたり蹴転がされても起きないらしいが、まぁそんなもんだ。意識レベルが0の時には周りで何が起こっているか、自分の体に何が起こっているかを自覚意識の中で認知することは絶対に不可能。
要はその無意識・無自覚の時間経過が何時間で終わるかそのまま永久に続くかの違いしかない。
つまり毎日繰り返してる眠る→起きるを繰り返すのは『死』の予行練習だ。
 
眠っている間に24時間も経ってしまってびっくりしたこともあるが、事故なんかで何日も意識をなくすことがある人なんか眼が覚めてもそれがどれくらいの時間だったかを自覚は出来ない。
だとしたらパッと目覚めたら100年経ってても1万年経ってても50億年経ってても200億年経っててもその違いを認識は出来ないことも同じだ。
睡眠と死は一人称の中では分けることは出来ない現象で、そこに境界は無い。 
というよりむしろ物理でいうところの『重力』と『加速度』が同じ現象を違う方向から見ているだけの等価原理であるように、死と完全な眠りは一人称思界(造語=思考の世界のこと)を支配した『無』という時空に取り込まれた現象であり異なるところは無い。

この原理がもっとも分かりやすく作用するのは病院である。
外科手術のための麻酔後に患者が死んだ場合、死んだ当人にとってはそこに境界は無く『行ってきます。』といったあと麻酔効果が利きはじめ眠くて眠くてコトリといったあとは無境界で無に至る。

いつものようにいつもの時間に『おやすみなさい。』と家族に挨拶してそのまま逝ってしまった老衰のおばあちゃんってのが中学生の同級生の家族にいたが、おそらく当人は死んだことなんか気づいていなかっただろう。

そこにいたる行程に苦痛や悲哀さえなければ睡眠と死に明確な自覚の違いはない。
再び起きることができるか永遠かは一人称の自覚の中で分かることでも決まることでもない。

毎日布団に入って大きなアクビをして、ちょっと口元をむにゃむにゃ言わせて自分の一番心地よいポーズで布団に包まる。
それが自分の死ぬときの儀式でありたい。


            葬式

 ↑  生前からの本人のたっての願いで 立ったまま葬式をした ジョンさん(左・仮名)  実話です。

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Comments

No title 
>そこにいたる行程に苦痛や悲哀さえなければ
>睡眠と死に明確な自覚の違いはない。

最近流行の硫化水素ガスによる自殺はまさにこの効果があるという誤解が広まったからだが、
自覚意識の中で本当かろうじて分けてる死と睡眠の境界をなくすことが出来れば人は簡単に死を選ぶね。
『死を選ぶぐらいなんだったら、もっと頑張れただろう!』
という生者の励ましは、この点まったく言葉が噛み合ってないね。
ツライ死をあえて選んだんじゃなくて、もうずっと寝ていたいから『死を選ぶ』んだよ。
あとは苦痛さえなければ。
死んだことはないけど…… 
苦痛は死をできるだけ回避するために生物にセットされたものだとも言える。
この状態が長く続くと死にますよ、という体からの警告が苦痛であって、
回避できないのにさらなる苦痛は可哀想だから意識を失う、という仕組み。

私はできるなら突然死よりも、余命を宣告されてから死ぬ方がいいな。
No title 
>余命を宣告されてから死ぬ方がいいな。
行きがかり上の後始末などなど生きてることへのつじつまや帳尻を合わせようとすると、そこんところへ行き着きますが、余命宣告ってのはやはりつらいですよ。
やはり自ら毎日の振る舞いの中で『いつ死んでも良い』という潔さとか後腐れのない生き方を続けある日突然ぽっくり逝く。





理想というものがいかに凡人にとって遠い話か分かったような木がします。

それより30年前の麻丘めぐみってどうよ?
そういえば 
>腹黒い方のさとうさん、
>余命を宣告されてから

とおっしゃってましたが、どれくらい猶予があれば良しとしますか?
1ヶ月って短すぎて身辺整理しか出来ないなぁ。せめて1年かなぁ。

でも俺のことだから結局1ヶ月前になって『嗚呼、あれしとけば良かった、これしとけば良かった』とか言いそう。
だったらやはり普段からいつ死んでも良いように身辺を整理しとくべきなのかな?

>苦痛は死をできるだけ回避するために生物にセットされたもの

という考え方はまぁ古くからあるわけで普通の動物には当たり前に備わっている能力だけでど、人間は『死』を知ったために、自分で扱えるものになっちゃった。
そこで、もっともこの生物のシステムに果敢に挑み編み出した儀式が『切腹』だと思う。

死を前提として自らを傷つけ苦痛を得ながら、しかし、それは致命傷ではない という滅茶苦茶さ。
最後は司法(またはお上)のお情けで死を賜う介錯というお情けが行われるという。

ああ!書き直しではござらん!最後の「点」をどうか・・・・・・!


あ、違う話になってしまった。

死んだら無です。 
それは、今から100年後に生まれるあなたの孫の孫が今どうなってるかを考えると言ってることが分かりやすいと思います。

人間も鳥も魚も草も微生物も

生命というものは
無から始まり無に帰る。


それだけです。
一日でもよい。 
明日死ぬよって宣告されたら、遺書書いて
「ごめん、これとこれとこれ捨てといて」ってお願いするから。
あと数時間と言われたら、いいやこのまんまでって感じが理想。

死と苦痛はどうしても切っても切れないものだと言いたかったのさ。
アメリカの死刑はなるべく痛くないように薬物投与が考えられたけど、
やっぱりあれは苦痛らしいって今頃になっても議論してるし。
死んだ人の証言は手に入らないんだから、議論しても無理だって。

私も「死んだら無」だと思う。
30年前の麻丘めぐみ?
それも無さv-198
とあるサイト(コミュ)でね。 
若い人たちが「死んだらどうなるんでしょうか!?」ということに悩みの声と慰めあう姿が行き交っていてねぇ。
いずれ必ず自分か親しい人がそういうことになるということにもう悲鳴に近い恐怖と悲しみが濁流になっててね。見てると少しかわいそうなんだが。
「無」だってことは答えではあっても、それに納得できはしないだろうし、納得したらそれは同時に「生命を軽んじること」に直結するんだな。

自分が死ぬのは怖くないが、身近な人に死なれるのは本当にかなわん。

親父とは仲が悪かったが、もちょっと生きていたかったろうにと思うと、オカンや弟のためには生きていて欲しかった。
死後の世界 
死んだらどうなるかわからないという恐怖から、
宗教は生まれたんだとも考えられる。
でも、あまり死を忌み嫌わない方がいいと思う。
人生はどうしたってラストに死が来るんだから。
案外、丹波哲郎の言ってたことが当たってるのかもよ。

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どんぱちの小原です♪

Author:どんぱちの小原です♪
映像草野球トイウ冠ヲツケテ~どんぱちプロダクショント名乗ッテマース。ソシテぇ自分デ映画作ッタリィ、自分デ上映シタリィ、出演シタリィ、他ノ上映会二行ッタリ感想書イタリ悪口言ッタリ アリトアラユル方向カラ自主映画ヲ見テイマ~ス。
自主映画デサエアレバ傑作モ駄作モ大好ゥキデ~ス。

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