自主映画まみれ!

自主映画(特に個人映画)という特殊で奇妙でへんてこりんでとてつもなく面白い世界の紹介や批評や悪口や日々のくだらないどうでもいいことを脈絡無くつづったブログ。ただいまブログだと怖いけど会ってみたら割といい人じゃん♪キャンペーン実施中(落とし所不明)

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今頃感想「なかのムービーラプソディ」 

Category: 上映会・作品感想  
長い間ご無沙汰しました。
ちょっとイタリアに行ってマフィアの末端グループに入って中ボス倒して大ボスの娘を保護して大ボスの元に運んでいる途中に実は大ボスが娘を暗殺したがっていたという事実にプッツン来てグループみんなで大ボスと戦ってきました。
俺がまたひっそりと世界の平和を守ったことを皆さんは覚えておいてください。

11月は別の活動の方で頭を取られてまったくこっちが出来ませんでした。
しかも、なぜかこれをやらないと先へ進んではいけない気がして止まってる内に1ヶ月・・・・・。
自主映画の見た作品は必ず記録を残すという使命を勝手に課してやってるんですが
何せ勝手にやってるんで誰も催促してくれないんでズルズルと延びてしまってました。その延びている間にちょっとイタリアに行ってマフィアの末端グループ・・・・・・。

11月は学際めぐりを初めとして芸術の秋らしく自主映画三昧で(自主映画を芸術と言い切るにはかなり暴力だとも
思うが)過ごそうとしたが、結局11月に行けたイベントはこの「なかのムービーラプソディ」という次に書く「TAMA NEW WAVE」だけとなってしまった。
なんちゅうか理由は書かないけど残念だ!


メインチラシ


■DATA
●題名 『なかのムービーラプソディ』
●日程 2009年11月8日(日)
●会場:なかのZERO小ホール http://www.nices.jp/access/zero.html
●時間:開場13時40分 / 開演14時 
●入場料:500円
●上映作品
 ◎「頭脳戦隊クビレンジャー」  2001年/酒徳ごうわく監督/7分
 ◎「頭角戦隊アタマイザー5 」 2003年/酒徳ごうわく監督/12分
 ◎「ナゲイレ」 /黒田 拓監督/24分30秒
 ◎「暴力抒情詩」 2000年/村上 崇監督/10分
 ◎「真夜中ノ狼~アル新聞配達員ノ詩~」 2004年/村上 崇監督/5分30秒
 ◎「ミリモ・センチモ」 2008年/耳井啓明監督/50分 


では、ネタバレアリアリで相変わらず牽強付会、支離滅裂、隔靴掻痒、迷惑千万、目糞鼻糞、軽挙妄動、厚顔無恥、暴飲暴食、弱肉強食、戦線離脱、確立変動・・・・・(オチつけるつもりだったのに案外どれもハズレでないところ・・・・。)
本文:敬称略
 

■「頭脳戦隊クビレンジャー」(2001年/7分)
 「頭角戦隊アタマイザー5」(2003年/12分)いずれも監督:酒徳ごうわく


クビレンジャーレッドの声は俺!

両作品とも俺声で出演しているし、クビレンジャーにいたっては撮影や編集にも関わったので純粋な鑑賞者とは言え
ないけど、もうあれから9年も経つんだねぇ。

5人の正義のヒーローが悪い奴らと戦う戦隊ものシリーズはDAIKONシリーズで有名な「愛国戦隊:大日本」をはじめパロディが数多く、またここ数年ではご当地ヒーローなんていうジャンルにも進出したが為に本一冊出せるほど供給過多に陥っている。戦隊ものパロディがここまで盛況になったのは一つはお話つくりの上でのフォーマットががちがちの固定されててイジル必要が無くあとは戦隊と敵のテーマを決めるだけで良いということと、その戦隊と敵のテーマの自由さが半端無く広く自由度が高すぎるからだ。
ご当地ヒーローなんかはその典型だろう。環境がどうのとか宗教がどうのとかいった高尚なものから日本各地の名産品紹介まで選べる範囲が無限大だからだ。そもそも本家の戦隊モノシリーズ自体が自作をパロディ化し続けているようなもんだし。

で、自主映画の中でこのジャンルを見る時にけっこう混乱するのが、「(映像または自主映画の)作家として」作られたものと、「ご当地のコミュニケーションアイテム」として作られたものとが混在してしまうことだ。
そのため「見方」「味わい方」を変えていかないと香りの無い松茸を食べるようなシメジの香りだけを嗅ぐような宛て違いの感情に振り回されることになってしまう。
何が違うかというと
「ご当地ヒーロー」の誕生理由は
「あんな面白いことオラたちもやってみるべ!」といった憧れを我が手に!する為に生まれたのに対し
「作家モノ(良い言葉が見つからないので仮に)」の場合は、
「こうやった方がオモロイやんけ!」というケチ付けか「あいつらこんなん面白がってやんの。」という反感から生まれる(笑 強引だけど)。
真反対だ。
だからモノマネから入るご当地ヒーローモノを見ると2本目からもう辛くなる。3本目からは修行か拷問に変わる。
5本目ぐらいになると多分俺は自分の秘密を全部喋ってしまうだろう。お話も展開も全部同じだからだ。
しかし、実際は一度にご当地ヒーローモノを集めてみる機会は無く、それぞれが独立した動きをとるためそれらが自主映画上映会なんかに飛び込んでくる。同じ映像フォーマット(ビデオならビデオ)で作られているので表面上はまったく同じものとして俎上に載ってしまう。まさに「自主映画」というものが輪郭が不定形であいまいな為に起こる現象だ。
映像作っているからみんな仲間だなんて考えも観察も浅過ぎ。
同じ鳥だからといって鷲と雀を一緒にしたらアカンやろう?

で、このクビレンジャーは作家型の作品で戦隊モノのフォーマットに沿うフリをしながらそのフォーマット自体をコケにする意図で作られている。オタクがオタク自らを突き放して笑って見せることが同じ愛好者である「ファン」といわれる群との大きな違いだと思うが、この作品は実はアンチ戦隊ファンよりも戦隊ファンにこそウケる。どこの会場でもオタクと思われる人種のこの作品のウケ具合は尋常ではない。つまり本来の戦隊モノのフォーマットが実はツッコミどころ満載なことは彼らは百も承知なのだ。喜んで騙されているサンタクロースみたいなもんだ。
作品を支える受け手の人たちは、昔はその作品の悪口を言おうものなら血相変えて怒る人たちで構成されていたが、今は「嘘を承知で」、いや嘘そのものも含んで楽しんでいる人たちに置き換わってしまっているようだ。
それは多分「成熟」したからというんだろうな。


■ナゲイレ Nage-ire~essecnce of Japanese spirit(24分30秒) 黒田 拓監督

ナゲイレ

離れて置いた器に「花」を投げ入れ、その結果の美しさを競う日本古来からある遊戯。それが「ナゲイレ(投げ入れ)」。

自主映画の特にバカ映画の中にちょくちょくある架空の競技(あるいはスポーツ)をモチーフにしたフェイクゲーム(←今、俺が作った言葉)モノの作品。ただし作り方が普通のバカ映画っぽい安っぽさが一切無いプロっぽい映像(所々暗いけど)で作られているところが特徴。
いわゆる「思いっきりバカなもの(ネタ)を 思いっきり本格的な技術で作ろう!」というコンセプトの作品。その凝り具合は隅々まで拘っていてロケ場所やセットや小道具や出演者などなどマジでスタッフを組織立てしなければ作れないような力の入れよう。劇中で流れる「テーマソング」の出来は秀逸。俺のようにバカ映画とはいかに稚拙に撮るか!という世界で生きてる俺から見れば邪道極まりない作品で言ってみればすべてが反則という珍しい感情を抱いてしまった(笑)。っていうか作者は普通にアマチュアじゃないし・・・・。

架空ゲームなので導入から中盤まではネイティブな英語のナレーションによってこの架空の競技の説明が流される。
その辺がいかにもありもしない日本伝統芸をわざわざ紹介する言い訳としては多分ベストだと。
実はこの作品わずか30分にも満たない作品なのに中身は、面白おかしく架空のゲーム「ナゲイレ」を紹介していく前半と、その技を暗殺術として使う裏社会の組織の現状のドラマ、そしてその組織に現れるフラワーアレンジメントを使うライバル組織との闘いと3部構成になっている。
体感時間は60分ぐらいあったようなボリュームなのだけど、この構成が全部均等に分けられていたことでポイントが分からず案外印象が定まらないことになってしまっている。1部は2部の説明のために、2部は3部の説明のために作られたそんな感じがした。本編のお話10分の為に前提説明が20分あったような印象が残った。まるでブレストをしている時に「面白いゲームを考えた」→「そのゲームは今では裏社会で息づいている」→「で、ライバル登場!」
とアイデアや発想がどんどん発達していった足跡がすべてがそのまま形になったような。
構成が三等分なのが感情の力点をどこに置けば良いのか分からなくなった理由じゃないか?と思うが、他の人はどうなんだろうか?
ラストシーンのストップモーションがかかる絵は王道過ぎる王道だけどすっげぇ~格好良かった。
ベタの正しさを知った。

でも、実は俺「投扇興(扇投げ)」のことを知っていたので「バカ度」はやや弱まってしまった。
http://www.asahi-net.or.jp/~RP9H-TKHS/dg_tosen.htm
http://www.tosenkyo.net/whats.htm
扇投げ


で、扇投げの写真を探していたらさらにその先祖らしい投壷(トウコ)というのも見つけてしまった。
投壷(トウコ)



う~ん、なんて不幸な出会いだったんだろう。

って言うか元々は3話構成だったのか?という気がしてきた。



■「真夜中ノ狼~アル新聞配達員ノ詩~」(04年/5分30秒)
 「暴力抒情詩」 (00年/10分) いずれも 村上 崇監督


狼
誠に勝手ながら暴力によって筋の通らない我侭を通す協調性の無い人間の生き様は反吐が出るほど嫌いなのでジャンルごと嫌いなのがヤクザやチンピラモノなんですが、そのせいで見れば面白いだろうと言う作品をけっこう見逃しています。だからと言って「ああ、惜しいことしたぁ!」とはこれっぽっちも思いませんが。
作者が同じなので続けざまに流れたのだけどこの二作品は微妙に色合いが違うので一緒くたには書きにくい。
「真夜中ノ狼~アル新聞配達員ノ詩~」 は大分前に主催者は同じの別の上映会で一度見ている。その時はラストの主人公のセリフ「田舎帰ろう」に爆笑した記憶があったけど二度目の今回は随分とポエムだなぁ。と思った。そうそう、二度目の今回も空中を飛んで交わすシーンの唐突さに笑わされた。もっとも会場が広すぎて声を出して笑うには少し空間密度が低かったので押し殺してしまったが。

「暴力抒情詩」はそれこそ何でもかんでも爆発し力を誇示することでしか自己を主張できない典型的なチンピラ男をけっこう冷めた視点で見せてくれるんだけど、夜の路上はわざとハイトーンで撮ったり屋内は明るさを低めで撮ったりしてリアルに撮らないことでそれこそ抒情的に語られていて主人公の不愉快な言動がフィルターに包まれて展開していてけっこう面白い。そうなんだよなぁ。メディアを利用しての「語り」って事実にフィルターをかけて感じられるものを統一したり変えたりするから怖いよなぁ。
どんな無茶な主題でも「説得力」を持たせることが出来るのがこの世界の面白さと怖さだよな。

女のアパートで指をつめる主人公のためらいと見栄との葛藤シーンがドキュメントみたいでスゴク面白かった。
冒頭のシーンがアップが多すぎて人物の識別が出来るのに時間がかかったが、それはわざと分からないようにしたのか?


■「ミリモ・センチモ」(08年/50分)耳井啓明監督 

ミリモ・センチモ


主人公の家長(いえなが)は自分の会社の経営で四苦八苦していたが突然内部のクーデターにより社長を解任される。町のデカい壁面ディスプレイテレビでかつて離婚して長年会っていない息子がマラソン選手として活躍していることを知り会いに行くが、すでに別の父親がいる事を知る。
フルマラソンに出場する息子のために家長は計測をする事になるが…

この作品のテーマは仕事にかまけて家族から捨てられたお父さんの家長(いえなが)が自分が会社に捨てられたことでやっと息子に会いにいく気になって、やっとお互いの心情を分かり合うという単純な勧善懲悪主義をベースにできてる。が、価値観が多様化しあらゆるポジションによって意味や価値が相対的に変わることが当たり前の今の時代の中ではそのテーマは声高に叫ぶだけの力をとっくに無くしている。
例えば主人公のおっさんが今の境遇に至った理由である「会社か家族か?」という二者選択は、それ自体が善悪を決められるほど単純な社会ではないし。どちらが悪いなんて簡単に決められない。
語り口は丁寧で情感たっぷりに語られてはいても内容は片方への一方的な肩入れによって語られる。
そのせいで息子の義理の父となった人の良さそうな男の姿はどこまでもお人良し(というよりもう書割りの人形!)としか描かれず、そのせいか(違うけどw)主人公のおっさんは劇中一度もその男に今の彼らを形作っている家庭をぶっ壊しかねない乱入に対して本質的な詫びを入れない。
価値観の多様さが確立したために同じ物語を見ても「母親の立場から見る人」「義父の立場から見る人」「子供の立場から見る人」も並立しているから描かれた主人公以外の立場から見るとこの物語は一方的過ぎるのだ。
もちらん心地よい感動のお話の作り方という観点では上手にできている、分かれた息子の為に無理と無茶を重ねる主役のおっさんはビジュアルも合わせてキャラが立っているので素直に見れれば見れる。
しかし、表現がストレートで真っ直ぐな分「自分の血を分けたわけでもない赤の他人にそれでも父親であろうとする義父の苦労にまったく視線を向けない」ことで「フィクション」を成り立たせている際どさや危うさやが反感とともに際立ってくるのだ。
クライマックスでやはり会社に帰らなければならないという葛藤に見舞われた主人公は「駄目な男の見本として俺を見ろ!」と見栄を切るが、それは筋が通らない主人公の言動が物語を破綻させかねないことへの作者のせめてもの言い訳かもしれんとすら思えたが、けっきょくラストシーンで息子との思い出の廃線路を歩くことで「いい目に」あった主人公のおっさんにやはりイラっとくる。
物語は時にファンタジーであることも必要だと思うが、この作品にはそこまで引き込むだけの力が無かった。突き放した言い方をすれば、まだ既存のテーマを模倣することしかできない彼らの若さゆえの力の足りなさだと俺は思う。
事象を見る方向は十人居れば十通り有るけど、一人一人の個々は一方向からしかものを見られないわけだから当然偏ったものの見方になるのは当たり前なんだけど、だからこそ対象を持ちあげたり裏返してみたり離れて見たり後ろに回ってみたりいろんな人の視点を自分も持つしかないのではないかと思う。
万遍無い答えを出すためではなくて自分の主張を押し通すためには聞く側がどう聞こえるかを知っておくことが同じくらい重要だからだ。


■総評

1回目を除きこれで3年連続3回目の鑑賞になるが、この回が一番観客が入っていたように思った。
宣伝の方向が老若男女まぜこぜの地域密着型というこの手のイベントとしては少数派のやり方で続けていることが特徴だけど、相変わらず彼らの考える自主映画とは何を指しているのかということと自主映画の価値をどう設定しているのか見えない。
今回のチラシなんかはネット上の表面だけしか見てないが「自主映画」という単語は丸っきり書かれていない。
「100本近い応募作品の中から厳選した秀作をお届けします。」というコピーはまるでコンテストでもやったかのようだけど実態はそうではない。
自主映画のことをまったく知らない人にとってはそれこそ「普通の商業映画」の100本から選んだように見えるがいくら見てもまったく思い当たらない作品ばかり。どんな100本から選んだんだよ?っていう気にならないか?
まぁ結局チラシの大半は専門学校なんかに配ったというからターゲットは外れていないだろうけど、つまり実は「自主映画を知ってる人にしか届かない」言葉と声の出し方になっていると言うことだと思う。
っていうか、正直主催者と知り合いでなかったらあのチラシでは俺でもあまり行こうという気がしない。

あと、関連してだけど毎回イベント主体が無い。メインビジュアルは上映作品の中から1本選んで並べているから、毎回違うイベントに見える。ましてや年に1回しかやらないイベントがチラシのデザイン上連続性を持たせて無いってのはどういうわけか?毎回努力や苦労を終わらせてることになってるのがもったいないもったいない。
それとも俺が拘り過ぎてるのか?

金がでてるわけでは無いだろうけど中野区の公認団体みたいなポジションを持っているのならなおさらセレクトに応じた作者や観客や区民やらに自分は何者かを説明する義務があると思うんだけどな。
それが清く正しく高尚なものである必要は無いよ。我侭でやるならどんな我侭かを主張することこそ「主催者」がもっともプロモーションしなければならない部分だと思う。
でないと蓮舫が中野区に居たら仕分けされちゃうぞ。

相変わらず愛情ダダ漏れのパンフレットはただ贅沢な話だけど毎回見てると慣れてきた。
書き方なんかもっと遊び始めても良いのではないか?
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テーマ : 自主制作    ジャンル : 映画

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どんぱちの小原です♪

Author:どんぱちの小原です♪
映像草野球トイウ冠ヲツケテ~どんぱちプロダクショント名乗ッテマース。ソシテぇ自分デ映画作ッタリィ、自分デ上映シタリィ、出演シタリィ、他ノ上映会二行ッタリ感想書イタリ悪口言ッタリ アリトアラユル方向カラ自主映画ヲ見テイマ~ス。
自主映画デサエアレバ傑作モ駄作モ大好ゥキデ~ス。

ダカラァ
商業映画ハ嫌イデェス!

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