自主映画まみれ!

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坂本龍馬と薩長同盟について(龍馬伝 NHK 第三部)

Category: テレビ  
大河ドラマでは9月にはいり坂本龍馬の最大の晴れ舞台「薩長同盟」が締結されました。
そこで「龍馬伝(NHK)でしか幕末を知らない人のための「周りの人にちょっといい顔できる一夜漬けの歴史講座」と題しまして今夜は「坂本龍馬と薩長同盟について」について知ったかぶり知識を披露しようと思います。

多くの幕末あやふや派の皆さんが薩長同盟の意味合いがイマイチつかめていない方が多く見受けられます。そのせいでドラマを堪能しきっていないもったいないことになっています。そういえば歴史の教科書ですら「薩摩と長州が坂本龍馬の斡旋により同盟を結び、そのことが倒幕への一歩となった」というようなあっさりとした書き方しかされていません。
たかだかこの二藩の同盟が何でそんなに大ごとなのか分からない。そういう声が多く聞かれます。
しかし、そんな人たちには申し訳ありませんが、今後どれほど教科書が薄くなろうがゆとりが進もうがこの一行は削られません。
それほど大ゴトなのです!

薩長同盟ジオラマ(笑)

 
●藩同士の連携同盟は法律で禁止事項
徳川幕府は開幕のときからすぐに武家諸法度等により各藩同士の婚姻や同盟を禁止しました。幕府の制定した法律はほとんどがその真意に「大名が力を持って幕府を脅かさないように」という配慮一色です。そのため藩同士が家を行き来することすら禁止されていました(※ここ重要!)
そうでなくても幕府を初め、各藩も基本は軍事政権ですから軍事情報はトップシークレットでしたので手の内を見せ合うことになる同盟はありえません。
実際、藩同士が同盟すること自体が250年間ありませんでした。

●長州との同盟=倒幕決定
長州征伐中のこの時期に長州と同盟するということは幕府という公式政府から「有罪判決」を受けた人と同盟するということです。
それは明らかに幕府の否定であり幕府を敵とすることです。
薩摩が会津や桑名と同盟するのとはまったく状況が異なります。
西郷も木戸もその重大性を十分に知っていました。

●感情最悪もの同士(笑)の同盟。
これはよく言われることですが、薩摩は先代の藩主・島津斉彬の活躍により幕府内での発言力は極めて高くなっていました。次代の久光(厳密には藩主後見人)もその勢力を維持するためにいろいろ活躍していましたが、桜田門の変以降弱腰になった幕府はすっかりと朝廷の顔色をうかがうようになっていました。で、その京都朝廷の政論を作り上げていたのが唯一京都に藩邸を置くことを許されていた長州でした。薩摩は京都での進出に出遅れたということです。
京都を動かさないと幕府は自分の思ったとおり動いてくれないと知った薩摩は京都での出遅れを取り戻すべく陰謀を計り、あっというまに長州を京都から追い出し、長州派の公家を一掃してしまったのです。
長州の怒りったらありゃしません。なんとか挽回しようとした長州は頭に血が上っていますから最悪の選択「武力蜂起」をとってしまいコテンパンにやられました。薩摩と会津に・・・・・。

しかし、上の二項に比べれば同盟上の困難としてはそれほど大きくはありません。
この同盟は「積年の恨みは忘れてこれから仲良くいきましょう」なんて意味合いはこれっぽっちもありません。
「長州と手を結ぶっちゅうことは我が薩摩藩は幕府を敵にするということでようごわすな?」ということを薩摩に決心させることであり、長州から見れば「僕らはある意味自業自得で滅ぼされようとしているが、君たちは自分の意思で幕府にたてつこうという決心してくれるのか?」という意味です。
桂が裏書を求めたくなった気持ちは分かりますね。
薩摩は幕府から可愛がられていましたから無理して危ない橋渡る必要ないと決めても良いんですから。

桂浜銅像


で、この奇跡の薩長同盟の中での坂本龍馬の意義ですが、

たしかにこの二藩を同盟させようという動きは龍馬よりも早くからありました。
薩長和解は元々は、長州の京都追い落とし(8月18日の政変)後に筑前勤王党の月形洗蔵によって具体的に西郷に提案されました。
薩摩・長州・筑前の協力により幕府の暴走を抑えて都落ちした三条他の公家の復権を目指したものです。
が何も話が進まないうちに月形本人は所属する福岡藩により刑死します。
その後を引き継いだのは中岡慎太郎で、長州藩が参加した各戦争にも従軍しすっかり長州人になっちゃってました。当時の記録を見ると「薩長同盟は中岡が先で後から龍馬が持ってった(元筑前藩士・早川勇)」見たいな感想を述べた人もいました。
しかし江戸時代250年間通して一度も行われたことの無い藩同士の同盟を成立させることは技術上の困難が伴います。なぜなら藩同士のお付き合い自体も禁止されていたから顔を合わせることすらできないのです(江戸三大道場が志士たちを多く生み出したのはここだけが藩の垣根を越えて議論できる唯一の場だったからです)。
幕末大活躍した志士たちのほとんどがどこかの藩に属していましたが、だからこそ余計に他藩の人間と会うことが難しかったのです。
しかし公式には顔を会わせられない藩の間を自由に動き回れる唯一のポジションがありました。それが浪人でした

当時の多くの人が頭に浮かべていた薩長同盟を実際に実現させることができたのは坂本・中岡といった脱藩浪人でしかなかったのです。
その証拠が一度ならず二度(一度目の下関は失敗)も彼らの手によって同盟の顔合わせのセッティングが行われたということです。
もはや実際に同盟させられるのが2人でしかなかったという証拠でしょう。
初めは和解案だったのがいつから軍事同盟へと性格が変わったのか分かりませんが、長州征伐が出された以降は軍事同盟でないと役に立たなかったでしょうからその頃がきっかけだったんではないかと思います。

先に現れた元筑前藩士・早川勇の言葉は、裏を返せば「坂本が来るまで中岡・早川では同盟できなかった」ということです。つまり「心情」によるアピールしたからこそ有効性が無かったんではないかと思います。個人同士は情で動いても組織同士は絶対に動きません。組織や団体が情で動くぐらいならそもそも徳川は豊臣恩顧の大名に滅ぼされていなければなりませんし(笑)。
それを龍馬は利で結び付けました。
幕府との開戦を覚悟した長州への武器の購入を薩摩に肩代わりさせ兵糧米の不足に悩む薩摩に長州の米を売る。互いに欲しいものを嗅ぎ取り斡旋する能力と組織が「海援隊」でした。
だから教科書で薩長同盟の説明の際に中岡慎太郎が時々削られるのはこういう理由によるものです。

薩長同盟なんて幕府から見たら明らかな反逆行為です。
管理の目から離れたところでの藩同士の勝手な同盟だけでも開幕以来の初の不祥事なのに、それが外様最強といわれる薩摩藩と幕府が滅ぼすと決めた長州とが手を結ぶ。当然この時期ですから内容は軍事同盟であることは推測できます。
これはもう宣戦布告に等しい意味を持ちます。

さてここで坂本龍馬に対する幕府の目です。
『浪人であるがゆえに自由に各藩のエージェント行為を行え、当時の最先端(ハイテク)技術である蒸気船を操作できる組織を持つ元千葉道場塾頭も務めた剣豪(軍人)』それが坂本龍馬です。
ほっといたら今度はまた別の藩と同盟を結ばせることを画策するかもしれません。
ましてや彼の出身の土佐も武智半平太の活躍により勤皇藩と目されています。
当時の幕府が血眼になって龍馬を探したのは当然です。

以上が、『薩長同盟の価値と坂本龍馬の意義』についての一夜漬け講座でした。
最後に、蛇足ですが
幕府の管理外のところで藩同士が勝手に同盟する。
それ自体は誰の発想か分かりませんが、そういうことに抵抗の無いのはやはりジョン万次郎や勝海舟と進行のあった龍馬特有の抵抗感の無さから来るのではないかと思いますが、同時に「薩摩の今後の活動方針を倒幕とする!」という超大博打な決定をした西郷隆盛の判断力もちょっとすげぇ~な~と思わざるを得ません。


年相応に若い

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どんぱちの小原です♪

Author:どんぱちの小原です♪
映像草野球トイウ冠ヲツケテ~どんぱちプロダクショント名乗ッテマース。ソシテぇ自分デ映画作ッタリィ、自分デ上映シタリィ、出演シタリィ、他ノ上映会二行ッタリ感想書イタリ悪口言ッタリ アリトアラユル方向カラ自主映画ヲ見テイマ~ス。
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